心行寺付近の旧跡
・江東区最古の五重石塔(心行寺) | |
元享四年(1324年)三月二十四日造立の五重石塔。本区最古の石塔。 |
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・影窓院地蔵(心行寺) | |
江戸時代初期、心行寺に影窓院という寮舎があり同寺で造立された地蔵で結縁地蔵として知られる。 |
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・清元川口直の宝筺印塔(心行寺) | |
清元「北州」作曲者川口直と笛の名人川口忠七夫妻の供養塔。直は弘化二年(1845年)十一月二十六日没、忠七は天保三年(1832年)三月十四日没。 |
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・工藤琳甫の墓(心行寺) | |
医者、儒学者、寛永十二年(1800年)十二月十日六十二歳没。 |
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・五世鶴屋南北の墓(心行寺) | |
四世南北の孫、河原崎座の立作者、嘉永五年(1852年)一月二十一日五十七歳没。 |
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・松本交山の墓(心行寺) | |
富岡八幡宮二軒茶屋松本家の出身、谷文晃の弟子、光琳風画家、慶応二年(1866年)十月十九日八十三歳没。 |
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・鯉屋井上氏の墓(心行寺) | |
芭蕉の弟子杉山杉風市兵衛の孫一族の井上氏の墓。 |
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・栄光地蔵(心行寺) | |
洲崎遊郭心中男女の供養地蔵二体、大正十二年造立。 |
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・向井将監忠勝の墓(深川2-16 陽岳寺) | |
徳川家康に仕えた海軍の将、陽岳寺開基、寛永十八年(1641年)十月十四日没、東京都指定旧跡。 |
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・伏見義民の墓(深川2-16 陽岳寺) | |
伏見の住民三名が、伏見奉行の悪政を直訴、麹屋伝兵衛は、天明五年(1785年)九月殺され、文珠九助は、天明八年(1788年)一月三日、丸屋九兵衛は、同月二十四日牢死。 東京都指定旧跡。 |
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・観蒿月の墓(深川2-16 陽岳寺) | |
坂本米舟の子、高蒿谷の弟子、画家、天保元年(1830年)十一月二十日七十二歳没。 東京都指定旧跡。 |
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・二世英一蝶の墓(深川2-16 陽岳寺) | |
英一蝶の長男、画家、元文二年(1737年)閏十一月十一日七十二歳没 東京都指定旧跡。 |
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・関東郡代伊奈忠順の妻の墓(深川2-15 玄信寺) | |
関東郡代五代伊奈忠順の妻は、玄信寺の開基、元禄十四年(1701年)六月十一日没。 |
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・三世鼈甲斎虎丸(深川2-15 玄信寺) | |
浪曲家、昭和十三年五月五日五十四歳没。 |
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・紀伊国屋文左衛門一族の墓(深川2-15 玄信寺) | |
念誉上無信士が紀文といわれる墓があるが、紀文の一族と思われる。 |
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・初代市川八百蔵の墓(深川2-16 法乗院) | |
俳優、宝暦九年(1757年)十月十九日三十歳没。 |
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・閻魔堂(深川2-16 法乗院) | |
法乗院は、寛永六年(1629年)創立、閻魔を安置、深川の閻魔として有名。 |
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・尺八塚(深川2-16 法乗院) | |
虚無僧の尺八塚。昭和四十六年四月二十七日、初代古童百二十回忌に造立。古童の墓がある。 |
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・曽我五郎の足跡石(深川2-16 法乗院) | |
五郎の足跡を刻したと伝える石。 |
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・閻魔堂橋跡(深川1丁目黒亀橋跡) | |
法乗院閻魔堂近くの橋、「梅雨小袖昔八丈」の閻魔堂橋の舞台が有名、昭和五十一年高速道路建設油堀川埋立により廃橋。 |
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・直助屋敷(深川1丁目5番) | |
三角屋敷、赤穂浪士小山田正左衛門が、討入に不参加、町医者中島隆碩と変名、ここに住み、直助という下男に殺された。直助は権兵衛と変名、逃走したが捕まり処刑。「東海道四谷怪談」に取材された。 |
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・三井親和の墓(深川2-19 増林寺) | |
書道、細井広沢門下、神話染創始、福住の万玉亭に住み深川親和と称し、弓道に秀いで、天明二年(1782年)三月八十三歳没。 |
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・元ノ杢網夫妻の墓(深川2-22 正覚寺) | |
元ノ杢網は、四方赤良とも称し、狂歌師、文化八年(1811年)六月二十八日八十八歳没。その妻知恵ノ内子も狂歌をよくし、文化四年(1807年)六月二十日没。 |
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・三十三間堂遺跡(深川2-22 正覚寺) | |
富岡2丁目にあった三十三間堂は、明治五年廃寺、仏像古文書は正覚寺に移したが、災害にあい、矢数帳と源頼朝の千手観音が残っている。同時に三十三間堂由来と、元ノ杢網夫妻について記した碑が建っている。 |
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・深川閭校の碑(深川2-17 明治小学校) | |
明治十三年、明治小学校の沿革を記した碑、昭和四十七年再建。 |
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・馬頭観音の碑(深川2-17 明治小学校) | |
荷馬車に学童がひき殺され、その供養の碑。 黄檗宗海福寺の境内地で現在は明治小学校の校地となっている一隅にある。汽笛に驚いた奔馬が遠足の学童の列に割り込んで犠牲となった学童のため、元境内の地から掘り出された馬頭観音の碑を建てて祀っている。 |
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