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富岡八幡宮境内及び付近の旧跡

・御本社神輿(正面参道脇)
富岡八幡宮には元禄時代に紀伊国屋文左衛門が奉納した総金張りの三基の宮神輿があったが惜しくも関東大震災で焼失、神輿好きの深川っ子を悔しがらせていた。
御本社神輿は平成三年佐川清氏(佐川急便社主)より奉納されたもので台輪幅五尺(1.5メートル)、屋根の最大幅九尺三寸(2.9メートル)、高さは四メートルを優に超え、担ぎ棒を含むと4.5トン、鳳凰の胸には七カラットのダイヤモンドを始め、装飾の各所に宝石を配した日本一の御本社神輿である。またその隣には平成九年に初渡御をした御本社二宮神輿がある。

・横綱力士碑(八幡宮社殿東側)
富岡八幡宮には貞享元年(1684年)に初めて寺社奉行の許しを得て年二場所定例の勧進相撲が行われたことから、江戸勧進相撲発祥の神社であるといっても過言ではない。
相撲にゆかりの深い富岡八幡宮には歴代の横綱の名を刻名した横綱力士碑を始め、正面参道には大関力士碑、巨人力士身長碑、巨人力士手形足形碑、など多くの相撲に関わる石碑が建立されている。

・木場角乗りの碑(八幡宮婚儀殿前)
東京都指定無形文化財(昭和二十七年指定)
木場側並(筏師)の伝承、筏の上で曲芸を演ずる角乗りの碑。

・深川力持の碑(八幡宮社殿西側)
東京都指定無形文化財(昭和三十一年指定)
倉庫業に従事する人々のあいだに伝承された力くらべの曲芸、力持の碑、力持を記録した力石が奉納されている。

・七渡弁天の碑(八幡宮社殿東側)
江戸時代以前、この付近が七渡りの浦といわれていた延宝五年(1677年)の碑。

・天皇陛下御野立所の碑(八幡宮社殿前)
昭和二十年三月十日戦災空襲の被害を御視察のため同月十八日昭和天皇が行幸された記念碑。

・天皇陛下御製碑(八幡宮表参道傍)
「身はいかになるともいくさとどめけり
ただたほれゆく民をおもひて」
との終戦時の昭和天皇御製を刻んだもの。ご在位六十年東京都奉祝委員会により昭和六十一年十月二十六日建立。

・森羅亭万象の歌碑(八幡宮婚儀殿前)
「ふしの嶺世におおへとももろひとに
笠きてくらすすがたみせたり」
森羅亭万象は、わが国最初の電気実験者であり戯作者であった平賀源内の二代目。狂歌をよくし天保四年(1833年)建てられた碑。

・三十三間堂跡(八幡宮東隣富岡二丁目)
京都の三十三間堂を模し、元禄十一年(1698年)再建、江戸の三十三間堂として有名、弓の競技がおこなわれた。明治五年廃寺。

・八幡橋(八幡宮社殿東北)
明治十一年工部省赤羽製作所において製作された都内最古の鉄橋。国の重要文化財。

・関東郡代伊奈忠宥の石灯籠(八幡宮表参道傍)
関東郡代伊奈忠宥が、宝暦八年(1758年)奉納した大きな石灯籠。

・和田家の碑(八幡宮社殿東側)
大阪の漁師大和田清左衛門は、徳川家康の招きにより、江戸にでて、関八州の漁師支配を命ぜられ、代々漁業、名主をつとめその由来を天保五年(1834年)子孫の和田源七が記した碑。

・深川不動(八幡宮西隣)
付近一帯は、富岡八幡宮別当寺院永代寺の境内、元禄十六年(1703年)から毎年永代寺において成田不動尊の出開帳がにぎわった。明治十四年不動堂が建立以来、深川不動として有名。

・歌仙桜の碑
芭蕉の弟子度会園女が、晩年八幡宮前に住み、正徳のころ三十六株の桜を永代寺に植え、これを歌仙桜と称し、桜の名所になった。宝暦五年(1755年)と昭和六年、歌仙桜の碑がたてられた。

・辰己花町の跡(八幡宮周辺)
八幡宮周辺七か所に、辰己の花町が栄え、江戸時代中期から末期にかけて、吉原の花町の繁栄をしのいだといわれ、江戸文化にも大きな影響を与えた。

・しま寿桜の碑(深川不動尊内)
新橋芸者若菜屋島次が、明治十五年桜数千本を寄付した碑。

・尾上菊五郎の碑(深川不動尊内)
尾上菊五郎は、不動信仰があつく、たてられた碑。

・完来句碑(八幡宮社殿東側)
「花のやよい一日はなのなくもかな」
松欣 他十二名
五世雪中庵対山 筆(文政五年)

・平花庵雨什句碑(八幡宮社殿東側)
「雪月華ながめはさらなり奥深し
ほととぎすにも富賀岡」
応需春蛾 筆 雨什門人 建(享和三年)

・蒲丈句碑(七渡神社前)
「うかうかと生きた甲斐ありはつ桜」
(文化二年)

・大橋清太郎句碑(八幡宮婚儀殿前)
「辰己なる鎮めの神の破魔矢かな」
富岡八幡宮 秉燭会(昭和四十一年)

・朝舟の句碑(八幡宮婚儀殿前)
鼓腹撃攘唯楽暁天
「朝舟やわか郭公阿梨難幾」(明和四年)

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